オアフ島南海岸の壮大な景色が目の前に!「パンチボウル」とはどんな所?

(写真:Hawaii Tourism Authority(HTA)/ Tor Johnson)

5月最終週の月曜日は、戦争で亡くなられた方々を偲ぶ「メモリアル・デー(戦没将兵追悼記念日)」です。毎年この日、ホノルルでは、戦争に従事した方々や、現役の軍人の方々と家族が集まり、記念式典が行われます。その会場となるのは「パンチボウル」。そこは一体、どんな所なのでしょうか。

ダイヤモンドヘッドと同時期にできた噴火口

(ハワイ州庁舎から見たパンチボウル(中央から右にかけての部分))

政治・経済の中心地、ホノルルのダウンタウンのすぐ近くにあるパンチボウルは、7万5千年から10万年程前に出来たとされる噴火口で、ワイキキにあるダイヤモンドヘッドと、ほぼ同時期に出来たと考えられています。高さは約140m。上空から見ると、丸く、中がくぼんでいる状態が「パンチ(ミックス)ジュースを作るボウル」に似ているという理由で「パンチボウル・クレーター(通称パンチボウル)」と名付けられたそうですが、古代ハワイアンが名付けた名前は「プウオワイナ(Pūowaina)」。意味はなんと「(いけにえの体を)置く丘」です。

古代ハワイの人々は、とても厳しい規律の元に生活していましたが、その規律を破ると死刑となり、神々へ、いけにえとして捧げられます。いけにえの体を燃やす祭壇があったのが、このプオワイナだったのです。その名は現在も、パンチボウルの内部につながる道の名前(Puowaina Drive)として残されています。

パンチボウルを利用するようになったアメリカ軍

1795年には、ハワイ王国を統一するために戦いを挑んだ、ハワイ島のカメハメハ軍とオアフ軍の戦いの場であり、その後、ホノルルの港を守ったり、儀式の合図として使うために、カメハメハ大王が大砲を設置していたこともある、王国の歴史において大切な場所です。しかし、ハワイがアメリカ合衆国の一部となってからは、アメリカ軍が拠点の一つとしたり、武器の演習場として使うようになりました。

第二次世界大戦がはじまり、ハワイ(当時は州になる前の準州時代)の知事から「パンチボウルを国立墓地に」との提案があり、終戦後の1949年1月4日、戦争で亡くなられた方の埋葬が行われ、7月に一般開放されました。現在は「国立太平洋記念墓地(National Memorial Cemetery of the Pacific)」として、数々の戦争で亡くなられたアメリカ軍人の方々が眠りについています。

パンチボウルの内部には…

それでは、パンチボウルの内部に行ってみましょう。先述の「プオワイナ通り」に沿って行くと、入口が見えてきます。

高く掲げられたアメリカ国旗の先にある、「ホノルル・メモリアル」と呼ばれる場所に行ってみましょう。

長い階段の先には、たくさんの「壁」と、女性の石像が人々を出迎えます。近づいて見てみましょう。

アメリカ海軍の軍艦に乗った、高さおよそ9mの「レディ・コロンビア」の像です。レディ・コロンビアとは、現在の自由の女神のように、アメリカが国となる前の植民地時代に「アメリカ人」にとってのシンボルとされていたもので、コロンビアの名は、大西洋横断を行ったクリストファー・コロンブスに由来します。この像の下の入口を入ると…

チャペルがあり、キリスト教、ユダヤ教、仏教それぞれのシンボルが掲示されています。チャペルを挟んで両脇には、長い回廊ができていて、第二次世界大戦、朝鮮戦争、ベトナム戦争におけるアメリカ軍の戦術や、戦争の詳細が分かるギャラリーとなっています。

レディ・コロンビア像とギャラリーのある「ホノルル・メモリアル」は、戦没者の方々の内、ご遺体が行方不明となっている方々の名が刻まれている場所でもあり、

数多く並ぶ「壁」に刻まれたその名の数に、圧倒されてしまいます。ハワイ出身の日系兵士の名もありました。

それでは、故人とその家族の方々に敬意を払いながら、実際の墓地となる場所を通り、「展望台」に移動してみましょう。

国立太平洋記念墓地となって間もない頃、埋葬された場所には十字架が添えられていました。

(写真:Hawaii State Archives)

1951年以降、十字架に代わり、名前が刻まれた石が地面に埋め込まれています。

現在、3万3千名を超える方々が眠っていらっしゃいます。中には、第二次世界大戦で米軍の日系人部隊の一員として戦い、その後、アジア系として初めての国会議員として長年活躍したダニエル・K・イノウエ氏のお墓もあります。イノウエ氏の名は、ホノルルの空港の名にもなっています(ダニエル・K・イノウエ国際空港)。メモリアル・デーの記念式典に向けて、お墓の数を超える本数の花のレイが多くの市民の協力により用意され、式典の日に墓石に置かれます。

展望台が見えてきました。低い壁で囲まれた展望台は、噴火口の海側の淵に作られています。そこからは、オアフ島の南海岸を広く見渡すことができます。

高層ビルが建ちならぶホノルルのダウンタウン、その先の海には港が広がり、近くにある空港からは、飛行機が飛び立つ姿が見られます。強い雨が降り注ぐ様子も、パンチボウルから見ると自然の力強さが伝わりますね。大雨の部分は、パールハーバー辺り、晴れている日には、さらに先のオアフ島西部の様子が見られます。海を見ながら、展望台を左手に歩いていくと、

「兄弟噴火口」のダイヤモンドヘッドと、ワイキキが目の前に広がります。パンチボウルの斜面にまで住宅地が広がり、ホノルル市街地でも、特に多くの方が居住しているエリアです。このように、人々の生活圏にあり、ホノルルの成長を見守り続けてきたパンチボウルは…

ホノルル市民にとって身近な存在であり、同時に畏敬の念を抱かせる存在でもあります。「ワイキキトロリー・レッドライン」は、パンチボウルの内部まで入りますので、観光でハワイにいらっしゃっる方も、ぜひ一度、訪れてみてはいかがでしょうか。このパンチボウルにまつわる深い歴史を思い描きながら…。

ABOUT WRITER
さゆり ロバーツ

東京生まれ。英会話講師を経て、2006年より「ワイキキ・ダウンタウン歴史街道ツアー」の主宰者、および、ハワイ州観光局公認講師として、ツアーや講演活動等を行う。テレビやラジオ、雑誌等、メディア出演多数。趣味は旅行とカフェ巡り。