ハワイに映画『アラビアンナイト』に出てくるような内装の邸宅があるなんて、想像もつかないのではないでしょうか? 大富豪のドリス・デュークが生涯をかけてつくった理想郷シャングリ・ラ邸は、見事なまでに青いハワイの空と海に、イスラムアートをマッチさせた邸宅です。現在は「シャングリ・ラ - イスラム芸術文化デザイン美術館」として、ツアー見学ができます。
ドリス・デュークは、1912年11月 ニューヨーク生まれ。父親はアメリカにおけるタバコ事業と水力発電事業で大成功したジェイムズ・ブキャナン・デューク。ドリスが12歳の時に逝去し、ひとり娘だった彼女は巨額の資産を相続しました。
1935年23歳の時に、ジェイムズ・クロムウェルと結婚、9ヶ月に及ぶハネムーン旅行へでかけます。そして、インドのタージ・マハルを訪れた際、イスラムアートの虜になったのです。その時は、夫の家族が所有するフロリダ州パームビーチの土地に新居を建築する予定でした。ところが最後に立ち寄ったハワイという場所にすっかり恋に落ち、「アラビアンナイトに出てくるような家」をここに建てると決めたのです。
ハワイでロイヤルハワイアンホテルに滞在中、当時宿泊客にサーフィンやアウトリガーカヌーを紹介するビーチボーイズたちと出会います。そしてその中に、オリンピック金メダリストでもあり、サーフィン界のレジェンド、デューク・カハナモクと彼の兄弟たちがいたのです。
ドリスは滞在を2週間の予定から4ヶ月に延長し、デュークの弟サムやカハナモク家の協力のもと、ダイヤモンドヘッドのそば「カアラヴァイ」に約5エーカーの土地を購入することができました。今や「ブラックポイント」として知られる超高級住宅地ですが、当時は全く何もない場所だったと言います。
そして、2年ほどかけてのべ250名ほどの作業員が携わり邸宅が建てられました。ドリスは最初ハワイ語で「Hale Kapu(直訳:神聖な家)」と名付けましたが、その後小説『失われた地平線』に登場する理想郷の名前「Shangri La(シャングリ・ラ)」と呼ぶようになりました。
1993年に80歳で亡くなるまで、イスラムアートへの愛情は途切れることなく、ドリスは収集に注力しました。コレクションの数は実に4,500点以上となり、これはアメリカで個人のイスラムアート収集では群を抜いた数字となっています。
1960年代には、この邸宅を美術館にすることを決めていたそうで、そんな彼女の意思を受け継ぎ、2002年から一般公開されるようになりました。
シャングリ・ラ邸の中へ足を一歩踏み入れると、質素な外観とは対照的なインテリアに、思わず「わぁ~!」と歓声がでます。広い玄関は、青、緑、赤の彩色が美しい17世紀に造られたイズニックタイルや、ドリスがモロッコの工房で特別注文したという幾何学模様の天井で飾られています。特に、この天井の緻密さに圧倒させられ、しばしの間首を上に向けてまうほど。上の写真がまさにその天井になります。
そして、そこにはまた、イスラムアートについての説明の展示があります。
イスラムアートは、イスラム教文化圏で根付いているアートではありますが、実は、宗教に関係なく世界中にイスラムアートといえるものが点在していることが示されています。ドリス自身もイスラム教徒ではなく、純粋に「アート」を愛し、熱心に学び、コレクションしていきました。彼女には、アートとしてどれだけ素晴らしいかを伝えたいという思いがあったようです。
中に入っていくと、さらに目を見張るイスラムアートのインテリアや部屋があります。驚くのが、シリアで爆撃を受け、焼け残った邸宅の一部を買い取り、それを客間として再現している「オスマン帝国ギャラリー」があったり、
中庭には、13世紀や17世紀のタイルもあれば、1938年にイランで特別注文した1万7千ピースからなるモザイクタイルが壁にはめ込まれていたり、とても個人の邸宅とは思えないスケール感です。
「ムガル・スィート」と呼ばれる、ムガル帝国時代の内装にインスパイアされてつくったドリスの寝室も見学ができます。
夫の寝室につながる扉の両脇には、ローマ時代のガラス器なども陳列されており、これらがシャングリ・ラ邸にある最古の品々になります。
さらには、リビングルームの奥に、世界で6つしかない13世紀イルハン朝のラスタータイル製ミフラブ(モスクなどの礼拝堂施設で、聖地メッカの方角に設けられた壁龕。イスラム教徒はこの壁に向かって礼拝をする)もあります。これは、NYのメトロポリタン美術館とオークションで競い合った上にドリスが落札したもので、このシャングリ・ラ邸の土地の価格より高額だったと言われています。他の4つは本国イランの博物館、ひとつはドイツの博物館にあるそうで、こうして個人宅(現:美術館)に存在すること自体が稀有になります。
そのミフラブを見た後に続くダイニングルームは、ドリスが再現したいと望んでいた遊牧民の居住スタイルをモチーフにした部屋となっています。テントのような部屋に、絢爛たるバカラ製のシャンデリアがあり、壁には1938年にイランで特別注文したモザイクタイルがはめこまれています。遊牧民のテントには相反するようなインテリアを、全く違和感なくひとつの部屋に融合させている、そこにドリスの美的センスを感じます。
ダイニングルームのラナイの外には、雄大な海とダイヤモンドヘッドが目の前に広がります。そして、噴水のある中庭から外へ出れば、広い芝生の庭とプールの向こうに「プレイハウス」と呼ばれる別邸も見えます。そちらは見学できませんが、白い建物にまるで差し色のような赤色の柱が目に飛び込んできます。これは文化遺産に指定されているイランのチェヘル・ソトゥーン宮殿に影響を受けて建てられたそうです。チェヘル・ソトゥーンとは「40本の柱」という意味。宮殿の前の池に映る柱も数えて「40本」とし、そう名付けられたと言われています。ドリスもそれを真似て、プールに柱が映るような設計にしました。彼女の造詣の深さ、それを実際に作り上げる行動力と財力にただただ驚きます。
このようにシャングリ・ラ邸は、ドリスが特注して制作したものから、オークションなどで購入した貴重な品々まで、さまざまなアートを織り交ぜてつくりあげた理想郷なのです。
ドリスは、21歳の時にドリス・デューク慈善財団を立ち上げ、篤志家として活動を開始しています。その中にはアーティストを支援する活動もあり、現在もシャングリ・ラ邸はその活動拠点として利用されています。先に紹介した「プレイハウス」も、パンデミック以前はアーティストの滞在場所となっていました。そこで見出された新星アーティストたちの作品も邸内に展示されています。
「世界一お金持ちの少女」として、12歳の時から世間の注目を浴び続け、常にマスコミから追いかけられる生活だったため、ドリスは非常にプライバシーを大切にする人だったと言います。同時に、独立心も強く、またフィランソロピスト(篤志家)として実際に行動をした女性でもありました。単に、好きなイスラムアートを収集しただけでなく、伝統工芸品を作っているところに特注をすることによって、今で言うところのフェアトレードに取り組んでいたのです。一説には、新婚旅行中にマハトマ・ガンジーとも会い、彼が、インドの貧困問題を解決するには、伝統工芸品や手工芸を大切にすることが重要であると主張していたことが、ドリスにも大きな影響を与えたと言われています。決してお金持ちのお嬢様の道楽ではなく、逆に莫大な資産がある彼女にしかできない使命を考えて行動していたのを感じ、だからこそ、ここは何度でも訪れたいと思わせる魅力があるのだなと思います。